木材保存誌コラム

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木材保存誌コラム

しろうさぎ

みちくさ vol.45 No.5 (2019)

前号で、七十数年分の「木材工業」誌が収められたUSBのことを紹介し、これを読むのは「遺跡発掘作業のようでもあり、原稿ネタには苦労しなさそうではある。」と結んだ。そしてここ数か月、まさにその作業が続いており、飛ばし飛ばしながらも、やっと昭和期が終わるところまで来た。

実はこのコーナー、今回で三十回目になるのだが、その初回、業界関係雑誌のコラム欄として掲載されていた例として、この「木材工業」誌の「しろうさぎ」のことを書いている。

著者は斎藤美鶯先生で一九五七年七月号から一九八〇年三月号まで計二七〇回も連載され、その最終回は小生が初めて同誌に掲載された総説の余白の囲み記事になっていた。

ここで先生は、最初数回投稿した頃、『「木材工業」のような硬い本の窓欄では、レクチュアはいけませんよ』と、先輩のM先生から諭され、以来、聞いた話と木材との係わりをちょっと最後に触れる程度に止めた、と述懐されておられる。

そこで今回、連載が開始された頃の内容を知りたく、数編を読んでみた。先生は一九八八年に享年八三歳で逝去されたというから、「しろうさぎ」の執筆時は五二歳から七五歳ということになる。

いずれもとても面白い。示唆に富んでいる。そして木材規格の在り方について、ずいぶん書かれていることも知った。

例えば、一九五八年十月号の「チャンスは今だ」では、

『メートル法施行で、われわれの用材規格も改正しなければならなくなった。...

戦前、JISがJESであったころ、立派な木材規格があった。この規格は、すでにメートル法を採用し標準寸法も理論的なものであった。それだけに当時の商習慣になじまれず、僕の記憶ではおそらく一度も使われなかった規格である。僕は、抜本的な改正といったが、だからといってこのように業界から浮き上っても理想的なものをつくれといっているのではない。ただ、政府も、業者も消費者も一体となって、この際建設的な規格改正をやらなければ当分チャンスは来ないということをいいたいのである。』

一九七四年四月号には二百回記念文が掲載されている。これも面白い。ぜひ一読されたい。

(徒然亭)

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木材加工技術協会の古希

みちくさ vol.45 No.4 (2019)

先日、木材加工技術協会の機関誌「木材工業」、その創刊号から昨二〇一八年十二月発刊の八六一号までを収めたUSBが送られてきた。これは同協会創立七十周年事業として作成されたものだそうで、六十周年のときのDVDに比べてはるかに使い勝手が良くなっている。製作に携わった協会の方々に敬意を表したい。

さてその創刊号から逐一読んでいくと大変なことになりそうなので、とりあえず総目次を眺めることにした。

そこでまず引っかかったのは創刊発行日と発行所の件。発刊は一九四六年四月(つまり筆者と同期生!)であるが、発行元は「森林文化会」とある。木材加工技術協会の創立はその二年後の一九四八年三月で、それ以降が同協会の発行になったわけだ。

なお「文化会」は翌年「財団法人林業経済研究所に併合」されることになり、ここに発行部が置かれていた。したがって発行所は二回変更されていたことになるが、いずれの組織も当時目黒にあった国立林業試験場内にあった。

で、第一巻一~三号でのタイトルを見ると、木材強度や木質構造に関係するものが多いように思った。例えば「使用応力決定因子(大澤正之)」「木材の理学的性質(矢澤亀吉)」「積層木材(平井信二)」「九州産構造用木材の強度(渡邊治人)」「木造住宅構造(中村源一)」。これらの著者のうち、大澤・矢澤の両先生はのちに北大の教授となられている。また「木材強度の徹底的研究」「木材学者の奮起を望む」という気になる表題のものもある。いずれも編集長(?)である田中勝吉先生の作。

他の学協会の動向も把握できる。第五巻二号(一九五〇)には「日本木材保存会の設立」と題した芝本武夫先生の記事がある。本誌の発行元「日本木材保存協会」は一九二四年の「木材保存研究会」発足後いくつかの組織変更を経て現在に至るわけだが、一九四八年に「日本木材保存会」に改組され、一九五五年になって同会の業務は木材加工技術協会の木材保存部会に継承されているのだ。

ついでに言えば木材学会の創立は一九五五年でその件についても同誌に掲載されている。

ここまででやっと創刊後十年分。あと六十年以上も残っている。先は長いが、遺跡発掘作業のようでもあり、原稿ネタには苦労しなさそうではある。

(徒然亭)

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週休七日制

みちくさ vol.45 No.3 (2019)

先般、一連の改元関連行事があった。このとき五月一日の新天皇の即位日を今年に限り「祝日」としたため、その前後の日が「国民の休日」となり、完全週休二日制の官公庁等では、結果として十連休になった、というわけである。

小生が就職した一九七二年頃の土曜日の業務は午前中に終了、午後は休み。これを「半(はん)ドン」―今やもう「死語」―といった。なお、この「ドン」の由来は「オランダ語で日曜日を意味するゾンタクの訛り」など数説がある。この制度は一八五〇年のイギリスに始まり、日本には一八七六年に官公庁に導入された。週休二日制の企業が増えてくるのはその百年後の一九八〇年頃からで、一九九二年五月に国家公務員の完全週休二日制、二〇〇二年度から公立学校の完全週五日制が実施される。

一方、祝日数は一九九二年には十三日、今は十六日もある。この数は先進国中では最多なのだそうで、この背景として、積極的に有給休暇を取りにくい日本の労働事情に配慮して、公的休日を多くしている面もあるという。

祝日が日曜日の場合、その翌日の月曜日を振替休日とする制度は一九七三年からで、それまでは振替はなかった。そして次第に祝日が増えていき「国民の祝日の日曜日の翌日の月曜日以降の国民の祝日でない祝日の翌日を休日とする」ことになる。これが冒頭の「十連休」につながる。

この評価にはいろいろあるようで、ネット上でも、曰く、

『経済全体にはプラス。国内外への旅行関連だけで三三二三億円の追加需要となり、四―六月期の実質GDPを+〇・六%ポイントほど押し上げ、政府にとっては「旱天の慈雨」。「カネのかからない経済対策」ということが認識され、来年以降も祝祭日に平日を組み合わせるなどで「大型連休」作りが行われる予感。』

『満員電車でもみくちゃにされていたのが、行楽地や高速道路でもみくちゃにされるのに変わっただけの話。今回のような連休が働き方改革の一環だとか、国内産業の活性化につながるとか触れ回っているが、長い目で見るとまったくそんなことはなく、むしろ社会が抱える諸問題を悪化させてしまう。』というのもあった。

週休七日制にある私には異国の話のようでもあるが、著しく同意する。

(徒然亭)

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最近、よく考えること

みちくさ vol.45 No.2 (2019)

昨年、これからの木材利用について、いくつかの講演、原稿執筆、それに報告書等の作成といった仕事が続いた。そこで考えることが多くなったのは「林業と林産業の連携」の件である。ここでその詳細を繰り返すわけにもいかない。一言だけ言えば、この連携の目指すものは、森林資源の持続的利用の保証にほかならない、ということではないか、と思っている。

こうした仕事を進める際には、その都度、新資料を探すわけだが、結構頼りになるのは、以前に書いた雑文や随筆を含めた諸文章と発表用の各種ファイルである。

諸文章の方は印刷物からOCR処理したものを含め、一九八〇年代以降、百編以上はあるだろう。必要に応じてこれらを眺め、書いた頃のことを思い出したりするわけだ。なかには完全に忘れていたものや、同じ繰り返しがあったり、今では書けそうもない「発想」があったりで、それはそれで時間経過が分かって面白い。

時々リニューアルをしなければならないのは各種統計資料である。林野庁ほかの省庁の資料を探すこともある。「改ざん・隠ぺい」のないことを祈るしかない。

もう一つの視点は木材行政施策の変遷である。これは少し長い目で、世界経済等の裏事情を勘案して見ておく必要があろう。「平成期」では二〇一〇年「森林林業再生プラン」「公共建築物等木材利用促進法」が目立っているが、ここに至る経緯とこの後の動向評価を行う時期が来そうである。

筆者の専攻の林産学である。学生時代の教育内容は次第に林学から離れていく頃で、林業のことはほとんど勉強していなかった。しかし「森林資源の持続的利用」というからには、これから「どのような森林を造っていくのか」といったテーマに着目していく必要がありそうだ。「再造林問題」「低密度植栽木の材質」あたりのことを林産学として考えてみたいと思っている。

ところで一九九一年公表の「諸文章」のなかに、ある林家の人からの発言として『我々は行政の指導のもとに生長量を重視して造林、育林を行ってきたものである。それが、伐期に達するころになり、材質が問題だ、これを考える必要がある、といまさら言われても困る。お集りの先生方からも、一貫した林野行政を行うよう行政サイドに働きかけてもらいたい。』と紹介されていた。

(徒然亭)

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三十数年前の話

みちくさ vol.45 No.1 (2019)

年が改まった。平成最後の正月、というわけで、この三十年間の出来事を扱った特別番組が目立っていた。平成元年の日本はバブル景気のピークにあり、その後、それが崩壊に向かうことになる。

その年の新語・流行語大賞を調べてみると、新語部門金賞「セクシャル・ハラスメント」、流行語部門金賞「オバタリアン」で、銅賞には「二四時間タタカエマスカ」というのもあった。

筆者は四十才を少し回っていたのだが、当時は一介の地方公務員でもあり、そんなバブル景気とは無縁であった。ただ、木材関係ではこの前後にいろいろな重要なことが起こっている。

まず八五年九月のプラザ合意とそれに先立って米国との間で同年開始された「MOSS協議」(のちに「日米構造協議」)がある。

後者は「国際的な競争力がありながら日本市場へ参入できない米国製品について、個別の分野ごとに市場開放策や貿易障害要因を話しあう」もので、対象分野には「林産物」が含まれており、米国は日本に対し、建築基準法、JISおよびJASなどの規格・基準などで、残された障壁を撤廃することを求めた。その結果の一つが八七年の建築基準法関連法規の改正(大規模木造の制限の緩和など)であったことを後で知ることになるのだが、しかし当時はそのような情勢にあったことを詳しく知る由もない。

確か八六年だったと思う。「国内における曲げ強度試験データの蓄積状況を調べてくれないか」という依頼を受けた。ちょうど建築基準法の見直しの時期にあたっており、主査のS先生は「全国でかなり蓄積されている実大実験データを元に、許容応力度を見直したい」との意向であるから、それに対応しろ、という訳である。

翌年、木材学会の木材強度・木質構造研究会幹事になり、「構造用木材の強度データの収集と分析」をまとめ、公刊した。

この成果によって、施行令中の許容応力度が大幅に変わることはなかったが、その後の木材強度評価法に対する影響は大きかったように思う。

その関連もあって、構造用製材JAS改訂関連のためのいくつかの作業部会委員として、年に数回は東京に通っていた。当時、東海道新幹線で五時間半、信越線で六時間もかかった。三十数年前の話である。

(徒然亭)

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