木材保存誌コラム

ホーム > 木材保存誌コラム > みちくさ > 三十数年前の話

木材保存誌コラム

三十数年前の話

みちくさ vol.45 No.1 (2019)

年が改まった。平成最後の正月、というわけで、この三十年間の出来事を扱った特別番組が目立っていた。平成元年の日本はバブル景気のピークにあり、その後、それが崩壊に向かうことになる。

その年の新語・流行語大賞を調べてみると、新語部門金賞「セクシャル・ハラスメント」、流行語部門金賞「オバタリアン」で、銅賞には「二四時間タタカエマスカ」というのもあった。

筆者は四十才を少し回っていたのだが、当時は一介の地方公務員でもあり、そんなバブル景気とは無縁であった。ただ、木材関係ではこの前後にいろいろな重要なことが起こっている。

まず八五年九月のプラザ合意とそれに先立って米国との間で同年開始された「MOSS協議」(のちに「日米構造協議」)がある。

後者は「国際的な競争力がありながら日本市場へ参入できない米国製品について、個別の分野ごとに市場開放策や貿易障害要因を話しあう」もので、対象分野には「林産物」が含まれており、米国は日本に対し、建築基準法、JISおよびJASなどの規格・基準などで、残された障壁を撤廃することを求めた。その結果の一つが八七年の建築基準法関連法規の改正(大規模木造の制限の緩和など)であったことを後で知ることになるのだが、しかし当時はそのような情勢にあったことを詳しく知る由もない。

確か八六年だったと思う。「国内における曲げ強度試験データの蓄積状況を調べてくれないか」という依頼を受けた。ちょうど建築基準法の見直しの時期にあたっており、主査のS先生は「全国でかなり蓄積されている実大実験データを元に、許容応力度を見直したい」との意向であるから、それに対応しろ、という訳である。

翌年、木材学会の木材強度・木質構造研究会幹事になり、「構造用木材の強度データの収集と分析」をまとめ、公刊した。

この成果によって、施行令中の許容応力度が大幅に変わることはなかったが、その後の木材強度評価法に対する影響は大きかったように思う。

その関連もあって、構造用製材JAS改訂関連のためのいくつかの作業部会委員として、年に数回は東京に通っていた。当時、東海道新幹線で五時間半、信越線で六時間もかかった。三十数年前の話である。

(徒然亭)

  < トライアウト
コラムトップ
最近、よく考えること >

ページトップ