木材保存誌コラム

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江戸の町は完全リサイクル社会

虫めがね vol.47 No.4 (2021)

最近「リサイクル社会」という言葉を新聞などで良く目にする。人類は近代に入って大量生産、大量消費を謳歌し、それが豊かな社会と誤信してきた。大量消費は大量廃棄に繋がる。地球が無限大であればそれでも何とか治まろう。ところが七八億を超える人々が地球に大量廃棄していては、いずれ地球はごみの山になり、人間は住めなくなることに気付いた。それで持続可能な社会の実現の為にリサイクル社会(循環型社会)の構築が叫ばれている。

今から約三〇〇年前のわが国の江戸の町は完全なリサイクル社会であったことはあまり知られていない。当時の江戸の人口は一〇〇万人を超えてパリやロンドンと肩を並べる大都会であった。当時は大量生産の技術は無く、少量生産、少量消費が生活の基本となる。着物は高価なものなので庶民は母親が大切に使っていた古着を譲り受け、それを娘が着る。娘はそれを仕立て直して孫娘に着せる。それがボロボロになると雑巾やおむつとして使う。このように「少ない物」を修理再利用して最後まで「使い切る生活」であった。その為の修理屋や回収業者がたくさん活躍していた。

傘や提灯を張り替える「張替え屋」、茶碗、瀬戸物類を接着再生する「焼や き継つぎ屋や 」、金属製の鍋、釜を修理する「鋳い掛かけ屋や 」、下駄の歯や鼻緒をすげ替える「朴ほ お歯ば屋や」、煙き せ管る の竹の部分を取替える「羅ら宇お屋や」、桶、樽の箍たがを締め直す「箍たが屋や 」、古紙を買い集めて再生紙を作る「紙屑買い」など、多種の職人や商人が江戸の町を回っていた。このようにすべての「物を使い切る社会」であったので、江戸の町にはごみが無かったと言われている。

極め付きは人間の排泄物の糞尿である。欧米では糞尿は川に流して捨てた。そのせいでパリのセーヌ河やロンドンのテムズ河は大悪臭であった。ところが江戸では近郊農家が肥桶を担いで武家屋敷や町家を回って糞尿をくみ取り、ナスや大根などの野菜と交換した。更には「下肥仲買人組合」が糞尿を現金で買い取り、小舟で農村に運んで商品として売買するビジネスが成立していた。人間の糞尿は肥料として土に返し、その土で栽培した米や野菜を人間が食するというリサイクルが成立していた。江戸末期に日本の農業事情調査にやって来たプロイセン王国(現ドイツ)のマロン博士は、日本の農業における徹底したリサイクルに強い感銘を受けたことを記している。

明治になって日本は西欧文化を積極的に導入した。その結果として、まだ着られる服を流行遅れだからと廃棄し、故障した電気製品は修理代よりも新製品を買った方が安くつく、と廃棄するという変な社会になっている。「物を使い切る文化」から「捨てる文化」に落ちてしまった。

♪まだ食べられるのに捨てている平和

(赤タイ)

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「ロンドン大疫病」とニュートン

虫めがね vol.47 No.3 (2021)

一六六四年十一月にロンドンの西部でペストが発生しました。その後、しだいに東部、北部にも広がり、ロンドンの各所で猛威をふるいました。翌年の夏頃には一晩のうちに千人もの人が亡くなりました。大学も閉鎖され学生たちは故郷へ帰りました。宮廷もロンドンからオックスフォードへ避難しました。貴族や紳士のようなお金もちは家族や使用人を引き連れて、ロンドンを脱出し、田舎の別荘や知人を頼って避難しました。貿易商や船主などの富裕者はロンドンの中心を流れるテムズ河に船を浮かべて家族で船上に避難した人たちもいました。数百隻の帆船がテムズ河に並んで浮かんでいたそうです。一般庶民は田舎へ避難しようにも、生活の手段(生活費)が無いのでロンドンに居るか、一部は郊外や森に避難しました。当時のロンドンの人口約四十六万人のうち、約六万九千人がペストの犠牲になったという記録があります。避難先で亡くなった人もかなりいます。それらを加えると死者約十万人(約二十二%)という「ロンドン大疫病」として知られる歴史に残る大惨事です。

ロンドンでまだペストが流行している最中の一六六六年九月の深夜に、パン屋から出火した火事が四日間に渡って燃え続けるという「ロンドン大火災」が発生しました。この火災で多くの教会と住宅の八十五%が焼失した空前の大火災です。ところが、この大火災によりペストの保菌動物である家ネズミやそれに寄生している媒介昆虫のネズミノミが大幅に減少したおかげで、猛威を振るったロンドンのペストは一六六七年に入ると自然に終熄しました。

「庭の木からリンゴが落ちるのを見て万有引力を思いついた」という逸話があるアイザック・ニュートンは、当時、ケンブリッジ大学で研究生活を送っていました。ペストの大流行で大学が閉鎖になったために、やむなく故郷のウールスソープに帰りました。大学の雑事から解放された彼は研究に没頭しました。「万有引力の法則」、「微積分法」、「光の分光的性質」などのニュートンの三大業績と言われるものの基本構想はほぼこの十八ヶ月の避難生活時代に出来上がったそうです。わたしはかって所用でケンブリッジ大学に行ったことがあります。その時、学内を案内してくれたマウンダー教授が指差して「あの窓の研究室がかってニュートンが研究していた部屋です」と教えてくれたのを想い出す。

いま、日本政府はコロナ禍対策で、不要不急の外出は控えて自粛するように呼びかけている。自粛して余裕ができた時間をニュートンほどにはいかないまでも有意義な時間に活用できたなら素晴らしいと思っている。

♪ 分かるまい 上手にさぼるオンライン

(赤タイ)

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川柳と俳句(2)

虫めがね vol.47 No.2 (2021)

数年前に「川柳と俳句」の題目でこのエッセーを書いたが、その続編を書いてみる。

最近は俳句ブームと言われている。それはTBS系列テレビで八年あまりも続いている毎日放送制作の「プレバト!」という人気バラエティ番組に負うところが大きい。俳人の夏井いつき先生に浜田雅功というお笑い芸人を司会者に、梅沢富美男などの芸能人が作った俳句を夏井先生が査定する。芸能人が作った凡作の句でも夏井先生の添削で見違えるような秀句に生まれ変わる。その鮮やかさが素晴らしい。また、夏井先生と司会の浜田、芸人代表の梅沢とのトライアングルの掛け合いが絶妙でおもしろく、毎週ほぼ欠かさず見ている。

わたしは友人にカルチャーセンターの川柳教室に通っているというと、「ほう」と言って何か代表作数句を紹介してくれと言われる。カルチャーセンターに通ってはいるが、なかなか秀句は生まれない。川柳の先生の言によると川柳は生涯の修業だそうだ。わたしはそんな心掛けはなく、単に老後の趣味としてやっているので、いっこうに上達しない。それでも新聞の川柳欄に投句して、時々掲載されることもある。

次に友人から出る質問は川柳と俳句はどこが違うのですか、である。両方とも五・七・五の句ですが、俳句は季語や切字を入れるなどのいくつかの決まりがある。川柳は比較的自由ですと説明しても大抵は「ふんふん」と聞いているだけ。それで最近は実例を挙げて説明することにしている。

♪柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

これは愛媛県出身の俳人・正岡子規の有名な俳句です。奈良の都の澄み切った青空に大きく枝を張った柿の木に赤く色づいた柿が実っている。それを一つ採って食べていると遠くで法隆寺の鐘の音が低く「ゴーン」と響いてきたという句です。まさに奈良の都の雅な情景が目に浮かびます。法隆寺の境内には子規の筆跡によるこの句の句碑が建っています。

♪柿食えば故郷(ふるさと)の老母(はは)目に浮かぶ

この川柳の作者は赤タイ(つまり私)です。子規の句との比較の為にあえて上五は同じにしました。柿を食べていると、子どもの頃、母に皮を剝いてもらって食べた頃の、今は老いた故郷の母の姿を想い出すという内容です。母と故郷の思いを詠んだ句です。子規の俳句はきれいな情景描写(風景画)ですが、赤タイの川柳は人物描写(人物画)です。このように説明すると「なるほど」と理解してくれるようだ。

今回は過去に毎日新聞に掲載された赤タイの川柳を紹介する。

♪人類は今や地球のお荷物か

(赤タイ)

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長崎出島と鎖国政策

虫めがね vol.47 No.1 (2021)

学会で長崎に行ったついでに国指定史跡「出島」を見学に行った。当時は島であったのだろうが、今は埋め立てられて陸続きとなっている。路面電車で、「出島」という電停で降りるとすぐに出島和蘭商館跡入口が見えてくる。

徳川幕府は鎖国政策を採り、日本人の海外渡航を禁じ、海外からの帰国者は死刑にした。それと同時に外国船の来航も制限した。しかし外国船がもたらす生糸、絹織物、ラシャ、象牙、砂糖、ガラス製品、胡椒など、珍しい物品は幕府としても手に入れたかった。それで、一六三四年に長崎に人工島「出島」を築き、外国船は、この出島に限って来航を認めた。初めはポルトガル人が出島に居住したが、一六三七―三八年に島原の乱が起った。これは島原藩の過重な年貢やキリシタン弾圧に反抗した農民たち信徒が、天草四郎時貞を首領として島原の原城に籠って起こした大規模な一揆である。幕府はこれの鎮圧に手こずった。

島原の乱でキリスト教に危機を感じた幕府は、一六三九年にキリスト教を布教しているボルトガル人を出島から追放した。ポルトガル人を通してビジネスをしていた出島町人は困った。出島築造の費用はこれらの町人たちが出資していたのだ。それで宗教活動が制限されても貿易は行うオランダ人が一六四一年以降は出島に住むことになった。これから約二百年間はオランダ人が居住することになる。

通常は出島にはオランダ人の商館長、倉庫長、書記役、商館医、料理人、召使いなどが約十五人、その他に、長崎奉行所の役人(四人)と日本人の遊女数名が居住した。季節風を利用して、毎年七~八月頃、二隻のオランダ船がやって来て四ヶ月くらい滞在する。船長を除き一般乗組員は出島に宿泊場所は無く船内に宿泊する。明治になってわが国が開国した後は、出島は埋め立てられ住宅や商店などが建ち、往時の姿は無くなっている。現在、少しずつ計画的に復元が進められている。

鎖国政策と聞くと、日本人を鎖で国内に縛り付けて、自由がないような負のイメージが強いが、良い点もいろいろある。能、狂言、浮世絵、日本刀、日本酒、日本料理など、海外の影響を受けずに、日本独自の文化が発達した。また、外来感染症の侵入も出島という水際で止められた。歴史上、中国、ヨーロッパなどで何度も大流行(パンデミック)したペスト(黒死病)が日本に流入したのは日本が開国した明治になってからである。今年(令和二年)になって日本中に大流行している中国武漢発の新型コロナも、当時であれば、日本中に広まることはなかったろう。

♪近頃はコロナ理由に義理を欠く

(赤タイ)

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自然緑地「北雲雀きずきの森」

虫めがね vol.46 No.6 (2020)

わが家から歩いて三十分くらいの所に「北雲雀きずきの森」という自然緑地がある。この名前の由来は、自然の移り変わりに「気付き」、自然の木々を愛し「木好き」、そして、より良い里山を「築く」というテーマのもとに名づけられたそうだ。なかなか佳い名前である。この森は、石切山(標高284m)と釣鐘山(標高205m)の北側の丘陵に位置している。古くは里山として周辺の村人たちが、薪や芝を利用し、松茸取りなど、生活に利用していた。時代が進み、各家庭の煮炊きや風呂沸かしなどに薪は使わなくなり、山は利用されなくなり荒れ放題になった。これを数年前から宝塚市が自然緑地として整備を始め、遊歩道やベンチ、テーブルが出来て、われわれ地域住民にとっては快適な自然散策の地となっている。

人が手を加えて植林した森ではなく、自然のままの雑木林なので、小鳥や昆虫たち、そして植物にとっても楽園である。春にはウグイスの鳴き声が聞こえる。メジロ、キジバト、ツグミ、カケスなど、多種類の野鳥も観察される。夏には、アブラゼミ、クマゼミ、ツクツクボウシ、ヒグラシなどの鳴き声が姦しい。そして、その主役の変化が夏の移り変わりを知らせてくれる。また、子どもの頃、古里の田舎で採って食べたアケビや山芋、わらび、ゼンマイなどもここで採集できる。

先日、きずきの森の坂道をのんびりと歩いて下っていたら、大きなアオダイショウが前方を悠然と横切っている。一瞬「ギョツ」としたが、蛇たちにとってもここは楽園なんだろう。

小さい子ども連れの家族や、老人夫婦や犬を連れて散歩している人などとすれ違う。この散策で気持ちが良いのは遊歩道ですれ違うと、お互いに「こんにちは」と挨拶し合うことである。街中では見知らぬ人とすれ違っても挨拶をする習慣はなくなっているが。

数年前に、この地に隣接する森を切り開いて太陽電池パネルを設置する大がかりな太陽光発電所建設の計画が持ち上がった。何度かの住民説明会があり、地域住民は自然破壊になると反対をした。しかし、市の許可は下りたと言うことで、いつ工事に着工するのかと思っていたら、今回の新型コロナウィルス問題が起こり、着工は延期された。そのうちにこの計画は立ち消えとなった。聞くところによると、この計画を進めていた企業が経済的に行き詰って倒産し、それに伴い、太陽光発電所計画もご破算になったらしい。今回の新型コロナウィルスが自然破壊から森を守った例である。

♪栗拾い旨い果実は棘の中

(赤タイ)

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